& Ito Jakuchu 宝蔵寺と伊藤若冲
伊藤家と宝蔵寺の関わり
伊藤若冲は江戸時代中期、正徳六年(1716)二月八日、京都高倉錦小路南東の角にあった青物問屋(あおものといや)「桝屋」(ますや)・通称「桝源」(ますげん)主人・三代目伊藤源左衛門の長男として出生しました。元文三年(1738)若冲二十三歳の頃、父源左衛門が四十二歳で亡くなり、若冲は四代目源左衛門となります。三十代の頃より絵画を志し、宝暦五年(1755)次弟宗厳(そうごん)(白歳)に家督を譲り茂右衛門と改名し画事に専念。当時の京都画壇を代表する画家となりました。
代表作は「動植綵絵(どうしょくさいえ)」三十幅(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)や鹿苑寺大書院の障壁画群ですが、元本山誓願寺の什物であった「果蔬涅槃図」(かそねはんず)は大根を釈迦に見立て、釈迦の入滅に嘆き悲しむ菩薩や羅漢、様々な禽獣(きんじゅう)を野菜や果物で表しています。また、生家であった錦市場が営業停止になったとき、弟の白歳とともに、再開に力を尽くした人物でもあります。
宝蔵寺は若冲及び伊藤家の菩提寺で、若冲は寛永四年(1751)九月二十九日に父母の墓石、明和二年(1765)十一月十一日に末弟・宗寂の墓石を建立しています。
宝蔵寺所蔵の若冲作品
髑髏図拓版画 売茶翁高遊外賛伊藤若冲筆
一霊皮袋 皮袋一霊
古人之語
八十六翁
高遊外
拓版画という技法は、彫刻した板の上に濡らした紙を置き、凹面に紙を押し込んで、表のほうから墨を塗ったり、タンポで墨を付ける。乾くと、凹部が白く残った画面ができるので、拓版画とも石摺とも呼ぶ。
本作の箱書きには白歳の孫に当たる清房が納めた旨が記されている。
印「売茶八十翁」黒文方印、「藤汝鈞印」黒文方印、「若冲居士」白文円印。
「一霊皮袋、皮袋一霊、古人之語」について
愛知県立大学非常勤講師 湯谷祐三
この賛の典拠は、北宋禅宗界の大立者である大慧宗杲(一〇八九~一一六三)が弟子たちに語ったという逸話を集めた『大慧禅師宗門武庫』の次の話である。
ある日、大慧が明月庵に来ると、壁に髑髏の絵が描かれていた。同行していた大慧に参禅する大臣の憑揖(?~一一五三、号は済川)が、「髑髏はここにあるが、その人はどこへ行ったのか。一霊(たましい)が皮袋(からだ)に宿っていないのは明らかだ」と頌を付した。大慧はこれに対して、「この髑髏こそがその人なのだ。一霊(たましい)が皮袋(からだ)であり、皮袋(からだ)が一霊(たましい)なのである」と頌を付けなおした。
ここで問題にしているのは、仏教における霊魂の有無である。仏教の大原則は「無我」であり、「不生不滅」(『般若心経』)であるから、こうした「空」(くう)の見地に立てば、霊魂などは元来存在しない。我々が「自分」「霊魂」と考えるものは、我々の「識」が作りだした虚像である。
憑大臣が「その人はどこへ行ったのか」と考えることは、すなわち心と身体を別々の存在と考え、身体は朽ちても、心(霊魂)は存在し続けるという考えであるから、仏教の原則に反することになる。そこをついて、大慧は「身体こそが心であり、心こそが身体である。(そして、両者は存在していない)」と斧正を加えたのである。
臨済宗の夢想礎石は、『夢中問答集』六五「真心」で、この問題を「髑髏の逸話」と共に取りあげ、「身は生滅し、心は常住なりと申すは、大乗の法門にあらず」と断じている。曹洞宗の道元も、『正法眼蔵』「弁道話」第十問答で、この問題について、「仏法にはもとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる」と、やはり「性」(心)と「相」(身体)の不可分を確認している。
以上のような、大乗仏教の原則、及び禅宗界の伝統的解釈をふまえれば、黄檗宗の禅僧であった売茶翁高遊外の解釈も、それを逸脱したものであるとは考えにくい。よって、ここに刷られている「髑髏」は、何か恨みをもって夜な夜な化けて出るような、月並みな「ドクロ」ではない。
「死は空の初門なり」と言われるように、「生死の虚妄」を脱した明澄な世界の象徴としての「髑髏」なのであり、「死して巌根に在らば、骨も亦た清し」(永源寂室和尚語録)といった精神で味わうべき「髑髏」であろう。
着賛当時八十六歳で、売茶翁は八十九歳で逝去することから、この図賛を高遊外の「遺偈」的なものと見なすこともできようか。
竹に雄鶏図伊藤若冲筆
伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)は、京都錦小路にあった青物問屋・枡源の長男として生まれました。二十三歳のとき、家業を継いで家業に励みますが、四十歳のとき弟に譲って、絵を描くことに没頭します。
「竹に雄鶏図」は、画面中央には、雄鶏が左脚を挙げて、右脚一本で立ち、正面を向いて鋭い視線でこちらをにらんでいる。墨色だけで描かれているが、雄鶏の身体の部分それぞれが墨の濃淡を変化させて立体的に表現されている。雄鶏の上には、竹が簡単に早い筆致で描かれている。作風より、若冲四十代前半頃に描かれた初期作品と考えられる。
若冲派について
伊藤若冲(1716~1800)の弟で、宝蔵寺にお墓がある伊藤宗厳は、白歳という号を持ち、「羅漢図」などの絵を描いていたことが知られています。
この白歳以外にも、若演をはじめとする弟子が十人以上確認されており、そのうち宝蔵寺には、白歳、若演、処冲、意冲、北為明、若啓、若拙、若涼、大光、環冲、栄柱の作品を所蔵しています。
それぞれの画家の活躍時期などは今後さらに研究が必要ですが、若冲と若冲周辺の状況を考える上で重要な作品と言えるでしょう。
伊藤白歳(宗厳)(1719~1792)
若冲の三歳年下の弟で、37歳の時に兄若冲が隠居したのをきっかけに、桝屋源左衛門を襲名し、家業である青物問屋「桝屋」の主人となります。明和八年(1771)に桝屋がる錦市場が営業停止となったときには、兄若冲とともに営業再開のために力を尽くしました。
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